さて、院の研究はどうですか?
村崎さんを怒らす巷のソーシャルワーカーの生態の謎は詳らかになりそうですか?
確かにソーシャルワーカーの自意識って気になりますよね。
率直に「それで君は福祉とどういう距離感でやっていくつもりなの?」って聞いて回りたい。
ひかれそう…間違いなくひかれると思う。うん、ひかれるな。
けど職場での同職種の軋轢はほとんどこの距離感の違いに原因が集約されるんじゃないだろうか。
ケースワークだけやっててソーシャルワーカー名乗んなよ!とまでは言わないが(思っているけど)、足りてなさへの自覚は全てソーシャルワーカーは持つべきだと思う。
生活のためのお仕事として割り切れば所属する組織がうまく機能するための福利厚生的役回りで満足しちゃえるようになるのかなあ。
組織の目指す方向と自分の進みたい道が重なっているならいんだろうけど。(にしても合致なんてありえないし、特に医療機関の理念とソーシャルワーカーのそれとはズレてなんぼだとボクは思っている)。
組織が社会にアタックするために組織の中から組織をキックアシストできるような組織の血肉になっているキャラ立ちしたソーシャルワーカーってあんま見かけないですよね。ビタミンワーカーばっか。
昨日の新聞につくろいの稲葉さんが出ていて現政権を絆原理主義のイデオロギーだと真っ向批判していましたが、ソーシャルワーカー業界にはこんな風に主義主張をすることをよしとしないムード(あまり賢い態度じゃないよねという冷ややかな声なき声)が、静かに、でもしっかりと漂ってますよね。ソーシャルワーカーでSNSやってる人も少ないし…SNSやってればいいってことでもありませんが、発信奥手な気質がソーシャルワーカーのイメージの暗さ、地味さ、わかりにくさの一つの要因なんじゃないかと…ぶつぶつ。
活動家と既存の福祉アカデミズムとの親和性もそんなに高いようには見えないし…ぶつぶつ。
政治や政策に直接介入するのが政治家や活動家なら「社会をより良いものに」を命題とする福祉職達はもっと彼らにコミットすべきだとボクは思う(塀の中からの小さな主張)。
つくろいの稲葉さんにしろぷれいすの生島さんにしろ、本当にソーシャルアクションしている人たちの近くにいるとボクはだんだんとソーシャルワーカーが嫌いになり、愛せなくなり、興味を失いそうになります。
折り合えない自意識過剰なソーシャルワーカーのいく先は、研究か活動かもしくは監獄か…それしかないのでしょうか。
アイデンティティクライシス。
ある情報筋によるとボクの勤めていた職場の後任にはケースワーク経験ゼロの方が入職したらしいです。何気にショック。オレのやってきたソーシャルワークはなんだったんだ?困窮者支援にソーシャルワーカーは必要ないのか?そもそもソーシャルワーカーだとわかってもらっていたのか?求められていないことをへとへとになってやってきたのか?もうみんなきらいだー!!!
この話題、キレ芸で締めることとします。
猪野健治/やくざと日本人
「衣食住が満たされぬものはそれ自体が犯罪である」
「やくざがなくならないのは政治と貧困の結果だ。などといわれてもどうしようもない」
「飢えなくて済むように教えること。これが教育だ」
「やくざとは哀愁の総合体。そこにあるのは権力、圧力、貧困におびえる姿だけ」
「何が善で何が悪かかだと言えるのはまだ余裕のある人間だ。罪と罰はインテリの精神的遊戯」
「努力するものは必ず報われるというのはひどいウソだ」
「やくざが住めないような清潔な社会は北朝鮮のようになる」
「組は前科とか国籍とか出身とかの経歴を問わないただ一つの集団だ。だから社会の底辺で差別に苦しんできた人間にとって組は憩いの揺籠となり、逃避の場となり、連帯の場となる」
「カネも地位も名誉も信仰もなかった。その中で「何もないこと」の強さを身をもって知った」
もっと刺さる言葉もたくさんあったけど、なんだか困窮者問題の専門書を読んでる気がした。
差別→極貧→家庭崩壊→勉学への道の遮断→就職困難→半失業→暴発→犯罪行為→叛逆→収監→就職困難→→…
やくざの世界がディストピアではなく、やくざを生み出してしまう社会がディストピアなんだなあ。