収監ダイアリー

虚栄心、自己治療、責務、手段、自己実現。晒す限りは活かしたい。

2022年4月24日

よどんだ舎房の空気が食器口を通り、窓の外へと逃げるように抜けていく。

布団をたたむ。端を畳の日焼けしていない青い部分にきちんと揃えて。

味噌汁に秋刀魚の缶詰に麦飯。朝食後薬も忘れていない。それから読書。朝っぱらから村上龍

シャバの日曜の午前ではまず体験できない和やかな心地。まあグレードの低い穏やかさではあるが。それでもこの平穏な空気に身を任せていると自分の生理に正直になれる。

明日からの訓練への憂鬱さ。怒鳴られることへの不快の予感。

まずはこの本音を受け止めよう。そして耐えよう。

今の苦をものにして過去に送り出す。逃げのない生活を送るためには「今」にどう立ち向かうかなんだと思う。

 

刑務官の厳しさなんてただの手段。ここに順応させるための合理的態度。全ては手段。教育も、配役も、指導も、懲罰も、机を使った筋トレへの注意も、仮釈への希望も、手紙の検閲も、祝日のおやつも全ては手段なのである。目的なしの手段だけで成り立つ場所、それが刑務所。ここでの体験はここをでた後には何の役にも立たない。身も蓋もない事実だ。だけども、それは言いっこなしでバカになるしかない。村上龍的にいうならば、刑務所の独房ってところは、ダイレクトで哲学的な場所なんだ。

 

安定は弛緩を招き、やがてマンネリズムへと流れる。

混乱は自立を強いり、それはダイナニズムへと変わる。

出会う必要も必然もない者が覚醒剤と出会っても何も生み出さない。ただ不愉快に思うだけ。ボクはそうじゃなかった。必要だったし、必然だった。

正直言って、ボクはマンネリズムもダイナニズムもどちらも嫌いじゃない。だからマンネリズムとダイナニズムの間に身を置くことによって人間を鍛えたい。鍛えようと思う。

 

 

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佐藤泰志海炭市叙景

1980年代の北海道を舞台にした18の物語。どの登場人物もほんの少し人生をこじらせている。

この中の「まっとうな男」が印象深かった。

職業訓練校に通う40代の男が飲酒運転をして覆面パトカーに捕まり、押し問答の末に連行される。要約してしまえば、身もふたもないストーリーなのであるが…だから余計に悲しい。

「ただ働いてきた。それだけの人生だった」と吐き出す主人公。ボクも同じように思ったものだ。こんな仕打ちを受けるほどのことなのだろうか…という思いは今もある。もちろんこんな者を「まっとうな男」と見るような街はどこにもないこともわかっている。わかっているから余計に泣ける。