収監ダイアリー

虚栄心、自己治療、責務、手段、自己実現。晒す限りは活かしたい。

2022年7月10日

空は高く晴れ、しかし風は涼しげに抜けていく。独房で過ごすにはもってこいの陽気だ。

週末は洗濯がないから、三日を二着の下着でやり過ごさなければいけないのだが、汗をかかずにすませる(つまりは下着を汚さずに過ごせる)一日が確保できてありがたい。

今日は矯正指導日。

矯正ラジオ、矯正ビデオ、矯正反省文。

反省なんかしてないのに反省文なんか書けねえっての。アホらしい。

とはいえ、形だけとはいえ、反省っぽいことを書いていると反省している気分になるから人間ってのは不思議なもんだ。

だけどこんなかりそめの反省、効き目は塀の中だけ。外に出たら元の木阿弥。魔法はとけて皆、俗に戻る。

罰と矯正ははっきり言って相性が悪い。みんな気づいるはずなのにどうして誰もやめようとしないのだろう。

刑務所なんて不毛な場所だ。

社会を良くしようなんて誰も思っちゃしないんだろうな、ここにいるやつら。

だからボクは課題反省文に後悔も懺悔も綴らない。リリカルを目指すのみ。

 

生きづらさには慣れていた

当たり前で気づきもしなかった

覚醒剤は言葉を剥ぎとり全てをあらわにした

やり過ごせていた痛みの存在がしみる

しらふの体は不快を見つけ不平不満を主張するようになった

それを抑える手立てをボクは知らなかった

そして今もわからない

このままでいいのになあ

 

俗物が詩を意識するとそれはエキセントリックになるしかない。

でもまあいい。わかってもらおうとは思わない。

ほつれた包帯の隙間から見える肌。破れた障子の穴から覗く眼球みたいで不気味だ。

 

 

f:id:cubu:20240410133346j:image

 東京藝術大学Diversity on the Artsプロジェクト編/ケアとアートの教室

解剖生理学的に全ての人間の共通点に従って実践を行う…つまり科学的。

ケアを要する人の個別性をよみとって、最善を目指し創意工夫し実践するプロセス…つまりアート的。

ケアは科学でありアートである…ストンと腑に落ちた。