テレビの情報番組「イット」の特集で薬物の使用容疑者に対する職質の模様が放送されている。大麻所持の若者が次々と逮捕されていく。
こういう番組、いらいらするのがわかっているのについ見てしまう。気分が悪くなって消してリモコンを投げ捨て、でも気になってしまい、リモコンを拾ってまたつけて、ぶつぶつ言いながら今回も見てしまった。
最後に「24時間私たちの安全を守っています」とナレーションがしめる。警視庁のプロパガンダだ。
いやいや何も事件は起こりそうにないだろうに。だったら酔っ払い取り締まれよ。無責任に捕まえて人の人生無茶苦茶にして何が正義だ。怒りがあふれる。
この怒りの熱を利用して指導日の課題作文を書いてみた。
「ボクが薬をやめない理由」
自分がどうして薬をやめることができないのかその理由を考えた。
前回出所してから数年間使ってない時期もあった。治療、自助グループにも通い、仕事も順調だった。だけど、その頃から治療の成果とか周りの支えのおかげとかで断薬の理由をうまく説明されてしまうことになんとなくだが納得いかない気持ちがあった。気持ちの深いところに「どうしてやめなくてはいけないだろう」という疑問が残されたままになっていたんだと思う。その疑問への答えは今もわからないままだ。
依存症治療の専門家は依存は意志だけではやめることはできないと言う。依存症者の意志はやめるための十分条件ではないらしい。ボクもそう思う。だが、やめるために意志は必要条件であることもまた一方の事実である。そしてボクの場合、まず「やめよう」「やめたい」と思えていない現実がある。意志にすら辿り着けていない状態なのだ。
やめる理由がわからないままとりあえずやめる努力のパフォーマンスをしているだけ。やめなければいけない理由をいつも考えているが、いまだにどうしてもわからない。これはこれで結構しんどい状況なのである。
覚醒剤のダメ絶対具合(違法性)については十分にわかった。法律でそうなっているんだし、実際に二回も刑務所に入れられてるんだし、さすがに理解できる。だが覚醒剤の非道徳性については誰も説明してくれない。辞書には道徳とは、社会生活の秩序を保つために守るべき行為の基準と書いてある。だけど、どうして覚醒剤がその道徳のボーダーラインとなっているのかまでは教えてくれない。そんな絶対的価値存在なのだろうか。覚醒剤なんてダイアモンド程度に過ぎないだろ。
覚醒剤の非道徳にどうしても納得できないのに「悪かった」→「やめた方がいい」→「やめよう」にはつながっていかないのだ。「ダメ絶対」よりも「悪くない絶対」がキャッチフレーズとしては十分に説得力もってボクの中では生きている。
法律と道徳は同じじゃない。
ドラッグは法律に反するものだが、ボクの道徳としては認められるものである。法律と道徳はイコールじゃない。その二者の折り合わせ方としてプライベートな時間に限られた交友関係で節度を持って(捕まらない努力と捕まってしまう覚悟)を使用するってのはあり!だと思う。
無事に作文が書けたのはいいものの、読み返して気になるのは、権利とか道徳の側面からドラッグを肯定しようとする自我の肥大についてだ。ここにいると依存症者という自意識が薄れしまう。
ロザムンド・ヤング/牛たちの知られざる生活
人間以上に尊重されて生きるカイツ・ネスト・ファームの牛にボクはなりたい(ある囚人の叫び)。
判断を誤った人間が囚人となり、健やかざる収監生活によってさらに判断力の欠如に磨きをかける。
個性を受け入れた支援、個別性に配慮した支援ってタフでなければできない。
牛に対してできることをどうして人間は人間に対してできないのだろう。ボクはもう少し優しくされてもいい気がする。
牧場の牛には囚人という立場で、牧場で働く人にはソーシャルワーカーという立場でうらやましがったり、感心したりしえらく忙しく、だからあっという間に読めた。
自分を人間だと思って生きてきた豚が生まれた子豚を見て驚くその衝撃の大きさと、でもすぐに順応してしっかりと子育てしていく逞しさ。