ランチのメニューは照り焼きチキン。クリスマスへの配慮が伺える。
名古屋の刑務所での刑務官による受刑者への虐待報道から、食事前のオヤジたちによる若干手指消毒のスプレーのかけ方が若干だが控えめになったような気がする。オヤジたちのストレスの捌け口がまた一つ減ってしまったのかもしれない。
ってゆうか「クリスマスとクスリヤリマスって似てねえ?」って毎年この時期にのたまわって顰蹙ついでに笑ってもらってるけど今年は誰もいないからポツリと日記に書く。書いていたら突然、ボクは「クスリをやめたくない」っていうんじゃなくて「クスリをやめると言いたくない」じゃないのか。なんて神の啓示的真理がおりてきた。
たまにクスリを使って楽しみたい。そんなささやかな煩悩のたしなみくらいで社会から追放されるような仕打ちを受けるなんてどう考えてもおかしい。だから変えなきゃ。ダメ絶対!が蔓延る社会にドロップキックしてやる。
だけどこの手の幸福追求第一主義を全面に打ち出した主張は世間にはなかなか理解されない割に、迫害を受けること兼ね合い。結構勇気がいる態度になる。ひた隠し生き延びるか、リスク覚悟で目立ち、引き受け、使用者としての種を繋ぐために人生を賭けるか。
分岐点はもう過ぎてしまっていたってこと。今日気づいた。
「失敗した人にもチャンスを」そんな言葉はボクには響かない。そもそも失敗したという認識がないしね。だから更生も何もそんなの自分事とは思えていない。救いもないほどの孤独になることもなかったし。孤独の予防のための薬だったんだから。今の状況だって辛くないと言ったら違うけど、辛いというよりは酷いよ日本の法律という思いの方が断然強い。別に意地張ってるわけじゃなく、考える時間が存分にあって、考えれば考えるほどそう思うようになってしまっている。
全然アーメン的ではないな今夜のイブは。まあいいか。明日はクリスマスだし。白い粉混ぜて雪合戦したいなあ。
若松英輔/藍色の福音
わかんなくともとりあえず生きとけ。って言うメッセージを受け取った。メッセージとして書かれたものでない言葉からもメッセージを受け取ることができるんですね。
「分かち合われた言葉は記録に残るが、湧出した沈黙は文字にはならず、それを受けとった魂で生き続ける」。
少しオープンダイアログを思ったよ。